『 祖 国 の 誇 り 』

栗永 照彦
元特攻隊
元香南町教育長

プロフィール 
昭和2年生まれ 89歳   
昭和18年    第13期甲種飛行予科練習生として松山海軍航空隊入隊
        その後上海海軍航空隊へ入隊し、さらにその後   
        青島海軍航空隊へ転隊し偵察課程を卒業。   
昭和20年3月下旬 
        姫路海軍航空隊へ入隊し、神風特別攻撃隊白鷲隊へ編入される。   
       5月4日、11日の2度にわたり串良基地より特別出撃するも
         エンジントラブル不調により帰投。   
       5月下旬、百里ケ原海軍航空隊へ。8月下旬、終戦により退隊。   
戦後は香川県の公立中学校教諭を経て、香南町教育長を務めた。
本年3月、靖国神社会館にて講演を行われた。

レポート

私の17、18歳の頃の忘れられない記憶、特攻出撃についてお話します。
「なぜ航空隊に入隊したのですか?」とよく尋ねられますが、いつも「雰囲気」と答え、「戦うなら飛行機乗り」憧れてました。

私が最初に飛行訓練を受けたのは上海でした。同時に通信や爆撃や索敵なども学びました。その後青島(チンタオ)へ移りました。そして卒業し日本へ帰ってきました。下関から上陸し、駅のプラットホームに立つとそこにはこれまでの外地とは全く違った故郷内地の緊迫した姿がありました。「ここ故郷は戦場になっているんだ」私たちは「よし」と心を決し、姫路航空隊に向かいました。到着して兵舎で待機していると飛行長が見えられ私たちに向かって特攻隊参加の意思確認がありましたが、誰もそこから外れること望むものはいませんでした。「この国を何とか守りたい」私たちはみんなそんな気持ち を持っていました。

 

 

 

昭和20年4月6日、「菊水作戦」第1号が始まりました。これはアメリカ軍の沖縄攻撃に際して日本海軍航空部隊が行った最後の国土防衛のための特高作戦です。戦艦大和や姫路の飛行機も参加しました。姫路から宇佐航空隊を経て串良基地に移動。宇佐、名古屋百里ヶ原航空隊から100名以上がきていました。兵舎の中はいっぱいで、若い兵隊は追いやられ食卓番をして待機していました。神風特攻隊白鷲隊の隊長(佐藤清大尉)は、出撃に際し、指揮所の隊員たちの前に立ち、「みんな、俺について来い。編隊を離れず、崩さずに付いてきたら、必ず敵艦に当たれる」この言葉は、気合を入れるためのものではなく、親鳥が子を羽に抱えるような親心だと感じました。その隊長の言葉を力強く受け止め、みんな特攻攻撃に出撃していったのです。私も2回出撃しましたが、1回目も2回目もエンジン不調で帰投し、務めを果たせませんでした。   
                       
終戦の時、百里ヶ原航空隊基地で迎える。私は航飛13期、その時居た1期の方から「飛行機乗りの中で‘航飛’はお国のためにみんな戦って散るのが仕事。」「みんなの仲間も大半が海の中にいる。10期の者はみんな海の中におる。」                           
大変ショックだった。いくら時代が移ろいでも、感情としては「情けない、憤る、腹立たしい」それが今でもバネになって現在があるのかもしれない。(1期の方からは他にも「この戦争の事を伝えていくため教師になれ。」と言われる)                           
今から5年前、私は赴任する親に同行してアルゼンチンに移り住むことになった孫を連れ、思い出の串良に行きました。                           
「平和」と書いた大きな記念塔が建っていて、特攻で出撃した人の名前がそこに彫ってありました。もう70年以上も前の記憶ですが、今でも串良に行くと、当時のことが今も続いているように思い出され、立っていられなくなってうずくまり、耐え難い思いに襲われます。私はただ、そうやって涙を流すだけで、戦争の事について孫に詳しく話をしたことはありませんでした。2年くらい経った頃孫から連絡があり、アメリカンスクールでの出来事を話してくれました。クラスでの話し合いの時間に、韓国や中国のクラスメートから、日本の戦争について散々悪口を言われたというのです。ところが孫は、戦争について何も知りません。「私は何も反論できず、ただ聞いているしかなかった。おじいちゃん、串良での話や慰安婦の問題や南京の虐殺についてもっと私に話して!」と言うのです。本当にショックでした。

 

 

 

そのときようやく「戦争は自分だけの問題 はない」と気づき、それまでずっと胸につかえていたものが消えていくのを感じました。「戦争は今の子や孫、そして 未来の日本人みんなの問題なのだ。だからこの戦争をなるべく多くの人に語り継がなければ」と思うようになりました。特攻に行った人の願いや国を守ろうとして戦争で亡くなった人の深い思いや命、また残された家族たちの悲しみを、今の時代の私たちはいつしか忘れてしまっているのではないでしょうか。

 

 

先人たちの足取りを尊重しなくなったことで、日本人は大切な心、そして祖国に対する誇りをも失っているように思います。「あのお母さんから(自分が)生まれた」という考え方 を持っていた。そういう謙虚さや情理を大事にするのが「日本人らしさ」でした。私たちが戦争の中で行われた真実を語ることで子や孫、そして後世の人々が正しい‘戦争の願い’をするだけでなく、失いかけている美しい日本精神を取り戻していくきっかけになればと思っています。                           
                           
                           
会長談
大変貴重なお話を聴かせていただきました。少々勝手に頂いた資料『志を継ぐ』から引用させて頂きました。                       
掲載しきれなかったエピソード、塩ノ江町長からの指摘のお話。「私たちの周りにある1つひとつに先人達の尊い思いが込められているということに気付く。)も入れたかったのですが入りませんでした。残念です。
                           
モーニングセミナー参加者:38社、40名でした。ありがとうございました。